大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成2年(行ウ)80号 判決 1995年3月02日

原告

学校法人普連土学園

右代表者理事

宇梶洋司

右訴訟代理人弁護士

青山周

被告

東京都地方労働委員会

右代表者会長

沖野威

右訴訟代理人弁護士

矢吹輝夫

右指定代理人

添野純弘

直江要一

被告補助参加人

普連土学園教職員組合

右代表者執行委員長

大塚嘉郎

右訴訟代理人弁護士

斉藤豊

江森民夫

村山裕

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が都労委昭和六三年(不)第六九号事件について平成二年三月二〇日付けでなした救済命令を取り消す。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する被告の答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、申立人を被告補助参加人(以下「参加人」という。)、被申立人を原告とする都労委昭和六三年(不)第六九号事件について、平成二年三月二〇日付けで別紙記載の救済命令(以下「本件命令」という。)を発し、原告は、同年四月二六日、右命令書の交付を受けた。

2  しかし、本件命令には、事実を誤認し、かつ、労働組合法七条二号の解釈、適用を誤った違法がある。

3  よって、原告は、本件命令の取消しを求める。

二  請求原因に対する被告の認否

請求原因1の事実は認めるが、同2の主張は争う。

三  被告及び参加人の主張

(被告の主張)

本件命令の理由は別紙記載のとおりであり、その認定判断に誤りはなく、本件命令は適法である。

(参加人の主張)

原告には労働組合法七条二号に該当する事由があるから、本件命令は適法である。

1 昭和六三年度の第二回団体交渉(同年八月九日開催予定)等における原告の団体交渉拒否

(一) 原告と参加人との間で、団体交渉ルールについて合意は成立していないし、団体交渉ルールは確立していない。参加人は、昭和六〇年の第二回団体交渉の開催条件で難航して団体交渉が開催されないよりは開催の実績を作るべきであるとの判断から、原告主張の団体交渉開催条件をとりあえず受け入れ、後日正式に団体交渉の開催条件を確定しようとしたもので、原告の主張する団体交渉開催条件については終始異議を留めてきたものである。事務折衝についても、双方四名以内というルールは確立していない。

参加人が昭和六三年度の第二回団体交渉の際、原告に対して交渉員七名による団体交渉ないし事務折衝を要求したのは、原告が従来から主張してきた開催条件に固執することに業を煮やしたためであり、しかも、参加人は、昭和六三年七月二九日、原告に対し、右団体交渉の開催条件について再検討するよう求めていたのに、これに対する原告からの回答はなかったのであるから、右団体交渉については開催条件を従来どおりとする旨の個別の合意も存在しないというべきである。

(二) 団体交渉の時間や場所について、企業活動や教育活動に支障のないように配慮することは必要であるといえるが、企業内や学園内での団体交渉が一切否定される合理性はない。クエーカーの理念と労働組合との団体交渉とは相容れないものではなく、学園内で生徒の目に触れないように配慮して団体交渉を開催することは可能である。

建築会館では交渉時間に制約があり、資料などの取り寄せとの関係で効率的に団体交渉が行えず、また、控室が確保できないため組合員の総意確認に不都合が生じているのであり、場所が近ければよいというものではない。

(三) 原告が、昭和六三年九月二九日、従来行われてきた就業時間中の事務折衝を多忙を理由として拒否したことは、組合を軽視する使用者によく見られる態度であり、このようなこと自体が組合を軽視している証左にほかならない。

2 昭和六三年度の第一回団体交渉(同年六月一七日開催)等における原告の不誠実な対応

(一) 原告が賃金決定について人事院勧告(以下「人勧」ともいう。)に準拠するとの方針を採用した当時、当時の教職員がこれを了解し、原告がその給与表の適用について改善を実施してきたとしても、現在もなおこれに準拠することに合理性があるとはいい難い。以前、参加人が人事院勧告を基準として要求をしたことがあるが、現行の給与表を是認した上での要求でないことは明らかである。そして、参加人が消極的に部分的な改善措置に応じていることをもって、参加人との交渉によって給与表を決定しているとは到底いえない。

(二) 東京の私立学校の中で人勧準拠による賃金決定をしている例はほとんどまれであり、その合理性はほとんど認められない。したがって、原告が仮に人勧準拠方式に固執するのであれば、相当の具体的資料や根拠を示して説明することが必要というべきであるが、原告は、昭和六三年度の第一回団体交渉を含め、従前の団体交渉においては、自己の主張のみを繰り返し、右説明をしなかった。

(三) 学園長、教頭、事務長、部長の職務手当は、組合員も今後役職に就く可能性があるのであるから、労働条件に関係のない事項とはいえない。前歴計算の基準は労働条件と関係があるのであるから、その計算基準が人事の機密に属するとして説明を拒否することはできない。講師の給与規定についても、学園全体として人件費がどのように分配されそれが合理的なものであるかどうかを協議することが必要であるから、労働条件に関係があり、公開すべきものである。入試手当の評価基準についても、原告はこれが交渉事項にならない合理的な根拠を示していない。

(四) 原告は、昭和六三年度第一回団体交渉期日及び第二回団体交渉期日を意図的に引き延ばした。

四  本件命令の「認定した事実」に対する原告の認否及び主張

(認否)

1 以下に認否を掲記した事実以外の事実は認める。

2 認定した事実1(2)のうち、救済命令申立時の組合員数は知らない。

3 同2(1)<1>の「団交を拒否し」、「これを拒否した」、「上記団交拒否」との点、同(2)<2>アの「これに沿った形での団交しかできないとしたうえ」との点はいずれも否認する。同イのうち「九月二六日の中労委事務局での事務折衝において、学園の北村理事が、「当面…一年くらいは、学園外で団交を行いたい」旨発言していた」との点は否認し、同イのうち「とりあえず学園の主張する上記提案内容で自主団交に応ずることとした」との点は知らない。同<3>ウの「途中で団交が打ち切られるということがあった」との点、同(3)<1>の「それ以上の具体的な説明や回答をしなかった」との点、同<2>の「(注.前記六〇年の事務折衝における北村理事の「当面」という表現を指すものと認められる。)」、「交渉員を増やすこと(または記録者の追加ないし議事の録音)および団交の場所を学園内とすることを要求し」、「これを拒否した」、「異議を留めた」との点、同<3>ウの「学園が組合に何の通告もせずに」との点、同エの「拒否した」との点、同(4)<2>の「内容としてはどうもはっきりしたものではなく、答申といえるかどうか」などと述べるのみで」との点、同<5>の「警告した」との点、同<6>の「交渉中半ばで慌ただしく終わった」との点、同<7>の「訪ね」との点、同<9>の「一度あるだけで、それ以外は、学園主張の根拠となるような資料は一切組合に提示していない」との点はいずれも否認する。

4 同3(1)<2>のⅱないしⅴ及びⅶの「拒否した」との点、同<5>及び同<6>アの大津事務長代理の発言、同イの「答えるのみであった」との点及び井坂理事の発言、同ウの「拒否した」、「学園はしばらく会館内に留まり、組合も午後八時頃まで会場に待機していた」との点、同エの「要求書(2)については事実上零回答であった」との点、同(2)<2>の「大津は「団交ルール(開催条件)については、こちらが申し入れた通りでやってもらう」としてこれを拒否した」との点、大津事務長代理が「出てもいいけど、答えは変わらない」と返事したとの点はいずれも否認する。

(主張)

1 昭和六三年度の第二回団体交渉等における原告の対応

(一) 原告と参加人との間では、昭和六〇年一一月七日に開催される団体交渉のための事前事務折衝において、団体交渉の交渉時間を二時間程度、交渉員数を双方とも四名、交渉場所を建築会館とする団体交渉ルールにつき合意が成立した。以後、団体交渉の都度、原告、参加人間に右団体交渉ルールにつき合意が成立し、団体交渉がこれに従って円滑に開催されてきたもので、右ルールは団体交渉ルールとして既に確立している。参加人は、右団体交渉ルールで団体交渉を開催するについて、抗議の理由や不都合の理由を述べて抗議したことはない。そして、事務折衝についても、双方四名以内というルールが確立していた。

ところが、参加人は、昭和六三年度の第二回団体交渉当日、このルール及び当日の開催条件に関する合意を無視して、労使間の正規の手続を一切踏まず、団体交渉、事務折衝のいずれも七名で開催することに固執して団体交渉を拒否したものであり、団体交渉が行われなかった責任は専ら参加人にある。しかも、団体交渉の開催条件は団体交渉事項ではないから、本件命令は、この点において既に失当である。

原告と参加人との間で一時的に団体交渉が開催されなかったのは、専ら参加人が従来の団体交渉ルールを否定して、「時間は制限しない」、「交渉員は制限しない」、「場所は学園内」という団体交渉ルールによらなければ団体交渉を開催しないとの態度に固執していたためであって、原告が団体交渉を拒否したことによるものではない。

(二) 普連土学園は、明治二〇年、アメリカ合衆国フィラデルフィアのキリスト教フレンド派(クエーカー)の者によって創立された女生徒のみを対象とする学校であり、建学以来学園において静かな環境が守られ続けている。団体交渉は、その主張が相容れない場合、激しかねないものであるが、学園としては女生徒の精神面の教育を重視しており、教育の場である学園内で団体交渉を行うことは適当ではないと判断している。

建築会館は、学園からわずか数百メートル離れただけで、時間にして徒歩数分のところにある。これまで交渉場所を建築会館としていることについて、資料の持参や終了時間の点などで不都合が生じたことはない。

(三) 昭和六三年九月に団体交渉の開催条件に関する参加人との交渉がなされなかったのは、原告の責任ではない。当時、大津事務長代理は、極めて多忙であったにもかかわらず、参加人が同月二九日の就業時間中にいきなり事務折衝をやろうと言い出し、さらに、原告が参加人の要求を認めないのであれば事務折衝をやっても仕方がないと言ったため、その日の事務折衝は取り止めになったのである。

2 昭和六三年度の第一回団体交渉等における原告の対応

(一) 原告は、昭和四一年八月二〇日以来、教職員の給与の決定を人勧準拠としており、参加人も人勧準拠を基準として要求をしてきた。しかも、人勧準拠とはいっても、原告は、具体的には参加人との団体交渉により給与表を決定してきた。

(二) 人事院勧告は参加人も容易に入手できるものであり、学園の財務諸表などの関係資料については、当時の参加人の田中委員長や山本組合員が評議員として配付を受けていることもあって、参加人が容易に入手したり、閲覧できるものであり、原告は、団体交渉において、その内容について説明していた。

(三) 組合員であっても個人の給料などに関係することは、交渉事項ではないし、組合員に直接関係のない労働条件も交渉事項ではない。

(四) 原告が意図的に団体交渉の開催期日を延ばしたり、早めたりしたことはない。

第三証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する(略)。

理由

第一事実関係

一  当事者

争いのない事実及び証拠(<証拠略>)によると、次の事実が認められる。

1  原告は、肩書地でキリスト教フレンド派の教義(クエーカー主義)による学校教育を目的として、女子の中学校及び高等学校を設置する学校法人であり、昭和六三年四月当時の専任教職員数は四九名(他に講師など約三〇名)、生徒数は八一四名であった。

2  参加人は、原告に勤務する教職員で組織する労働組合で、東京私立学校教職員組合連合(以下「私教連」という。)及び日本キリスト教主義学校教職員組合連合に加盟しており、本件の救済命令申立時(昭和六三年八月)の組合員数は一一名であった。

二  参加人結成後、昭和六三年度までの団体交渉の経緯

争いのない事実、証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によると次の事実が認められる。

1  参加人は、昭和五八年六月六日、結成と同時に原告に対し、参加人の権利確認、学校運営の民主化及び賃上げなどの要求書を提出し、これに関する団体交渉の開催を申し入れた。しかし、原告は、参加人が不適法な労働組合であるから、団体交渉の当事者にはなることができない、あるいは、参加人の申し入れた議題が団体交渉になじまないなどの理由により団体交渉に応じず、後には、書面による交渉方式以外の団体交渉には応じられないとの理由で団体交渉に応じなかった。そこで、参加人は、昭和五八年一二月五日、被告に対し、団体交渉応諾を求める救済申立て(都労委昭和五八年(不)第一一二号事件)をなした。

被告は、昭和五九年六月一九日、原告主張の右理由はいずれも正当でないとして、参加人が申し入れる団体交渉を書面による交渉方式によってのみ行うとの理由で拒否してはならず、参加人の申し入れた議題についてすみやかに誠意をもって団体交渉に応ずべき旨を命じた(同年七月九日命令書交付)。

原告は、右命令を不服として、中央労働委員会(以下「中労委」という。)に再審査を申し立てた(中労委昭和五九年(不再)第三九号事件)が、中労委は、昭和六〇年五月八日、再審査申立てを棄却する旨の命令をなした(命令書昭和六〇年六月六日交付)。

2  原告は、これを受けて、昭和六〇年六月二六日、中労委に団体交渉開催の仲介を依頼したため、中労委事務局職員立会いのもとで、同年七月一九日午後三時から同事務局会議室において、昭和六〇年度賃上げ及び組合活動の保障を議題とする第一回の団体交渉が開催されることになった。この団体交渉には、原告側から布川理事長、宇梶、北村両理事ら五名が、参加人側から田中執行委員長、大塚書記長ら九名の交渉員が出席した。席上、布川理事長が正常な労使関係の確立を念願する旨の挨拶をしたが、原告から賃上げに関しては具体的な回答はなく、組合活動の保障についても法的な一般論が述べられただけであった。参加人は、事前に、原告に対し、財政三表(資金収支計算書、消費収支計算書、貸借対照表)と専任教職員の号俸一覧表の資料提示を求めていたが、これらの資料は提示されなかった。そして、第二回の団体交渉は、原告が夏休み中に具体的な回答を検討し、中労委事務局職員の立会いなしで同年九月の第二週に開催することとなった。

3  第二回の団体交渉期日が間近になった昭和六〇年八月三〇日、原告側からは原事務長ら三名、参加人側からは田中委員長ら三名が出席して、原告の会議室で午後四時三〇分から事務折衝が行われた。原告は、同年七月一六日付けであらかじめ参加人に提示していた団体交渉の開催条件、すなわち、場所は学園が準備する、交渉時間は一回一時間半を限度とする、出席者は学園を代表する者及び組合を代表する者各々三名とする、学園側の交渉員は理事又は理事会が選任した教職員に限るものとし、組合側の交渉員は教職員たる組合員から選出されたものに限るものとする、との開催条件が理事会で決定されたので、「次回団交は九月一三日を考えている。交渉時間は午後五時から一時間半、交渉員は三名。場所は未定だが、学校という教育の場で行うのは望ましくないので校外を探している。」と参加人に原告側の提案をした。これに対し、参加人は、「組合としては、現在の段階で長期にわたる開催条件の取決めをしたいとは思わない。」との意見を述べた。そして、参加人は、同年九月九日に学園内で行われた事務折衝において、第二回の団体交渉に限り、交渉時間を二時間、場所を学園会議室、参加人側交渉員を七名(私教連中央執行委員一名を含む。)とするとの開催条件を提案したが、原告はこれを受け入れず、両者の話合いは物別れに終わった。その際、参加人は、原告に対し、再度財政三表と専任教職員の号俸一覧表の提示を要求した。

4  第二回団体交渉の開催条件に関する事務折衝がその後も学園内や中労委事務局において続けられたが、主として交渉場所と交渉員の点で折り合わず、労使間の調整が難航した。しかし、原告が、昭和六〇年一〇月二八日、参加人に対し、「1日時昭和六〇年一一月七日(木)午後五時から七時、2場所建築会館会議室(学園から徒歩四、五分、費用学園負担)、3交渉員双方各四名(人員名は別途交換)、4議題は貴申入れのとおり」との新たな提案を示したところ、参加人は、右提案では、場所は依然として学園外であるが、従来の原告案よりも交渉時間が三〇分延長され、交渉員も一名増加し、参加人側交渉員を原告教職員に限定していないこと、また、原告の北村理事が同年九月二六日の中労委事務局での事務折衝の席で「当面は、このルールで行こう。」と発言していたこともあって、とりあえず原告の主張する右提案内容で団体交渉に応じることにした。

5  その結果、第二回の団体交渉が、昭和六〇年一一月七日、賃上げと組合活動の保障を議題として開催された。原告は、賃上げについては、従前と同様、人事院勧告の国家公務員教育職俸給表(二)に準拠する方針を継続する旨回答した。原告の人勧準拠の内容は、学歴、年齢を基準として各号俸を適用し、最高号俸を若干延長するほかは、国家公務員教育職俸給表(二)をそのまま採用するものであった。これに対し、参加人は、東京都私立中学高等学校協会や私教連の調査による資料を示しながら、人勧準拠の原告の俸給表によると、他の都内私立学校との本俸の格差が三七歳で月額三万円ないし八万円にもなっているとして、原告の回答は承服しがたいと反論した。もっとも、昭和六〇年度の賃上げは、当時、既に人事院勧告に準拠して実施されていた。

6  参加人は、賃上げ及び冬季賞与を議題とする同年一一月二六日開催の第三回団体交渉に当たって、原告に対し、団体交渉の場所を学外とする必要があるのか疑問であるとして、その理由の説明を求める文書を提出したが、団体交渉は、原告主張の開催条件に従って行われた。

この第三回団体交渉以降昭和六一年三月五日の第六回団体交渉までの間、原告が賃上げについて、終始「既に一号俸アップさせ、改定済み」と主張する一方、参加人はこれに反発するなど双方の主張が対立したまま推移した。この間、参加人は、冬季賞与などに関する説明資料の提示を求めたが、原告からは何も提出されなかった。

なお、賃上げ及び冬季賞与を議題とする昭和六〇年一二月一七日開催の第五回団体交渉の際、予定された二時間の交渉時間が過ぎたため、会場管理者から退去の催促を受け、団体交渉は途中で打ち切られた。

7  参加人は、昭和六一年四月二日、原告に対し、昭和六一年度の賃上げ等を求める要求書を提出するとともに、同月一〇日に団体交渉に応ずるよう申し入れた。これに対し、原告は、団体交渉期日は同月二六日の理事会の後になる見込みである、賃金問題について五年、一〇年先の見通しを理事会で再確認しなければならないなどとして期日を提示しなかったため、結局、賃上げなどを議題とする昭和六一年度の第一回団体交渉は、原告の主張した同年六月五日に至ってようやく開催された。しかし、原告は、右団体交渉では、賃上げについては「人勧が出てからにしたい。」と答えるのみで、それ以上の具体的な説明や回答をしなかった。

8  参加人は、同年六月二七日、原告に対し、団体交渉についての申入書により、「場所については、初めから私共は「校内」を提案して来ましたが、北村理事の「さしあたり」ということを容れてこの一年間やって来ました。しかし、もう「さしあたり」の時期は終わりにして頂きたいと思います。」と主張するとともに、議事の録音又は記録者の追加を要求して、これまで行われてきた原告主張の開催条件を再検討するよう申し入れた。なお、右の「さしあたり」とは、昭和六〇年の事務折衝における北村理事の「当面は」という発言を指している。

これに対し、原告は、同日付け文書で、「録音を採ることには応じられません。出席者は正常な労使関係の実行のために、記録者も含めて慣行になっている、従来どおりの「双方とも四名」を守るよう申し入れます。また、場所については、学園で用意いたします。」と回答した。

参加人は、この回答を不満として、同年七月二日、交渉員を四名とすることは、話合いの実現を優先し、不本意ながら、その都度やむなく譲っているのであって、「慣行」化などしておらず、時間、場所も同様である、「さしあたり」ということを一年間も押し通し、「慣行」であるなどと言う態度は不誠実なものであるとの内容の抗議書を提出した。しかし、参加人は、次回の団体交渉については、とにかく話合いを持つことを最優先することとし、原告主張の開催条件で応じることにした。

9  賃上げ及び格差是正を議題とする昭和六一年七月三日の第二回団体交渉において、原告は、参加人に対し、(一)昭和六一年度の賃上げ、(二)都内私立学校と原告の給与水準の格差是正のための中長期の見通し並びに(三)今後の賃金改定の時期及び方法の三点について、同年九月初めに回答する旨を約束した。その際、参加人が今後の賃上げについては団体交渉の中で決めるよう要望したのに対し、原告の北村理事は、一応の理解を示す態度を表明した。なお、原告、参加人ともに右格差が生じていることについては認識が一致していた。

10  参加人は、昭和六一年九月一八日の第三回団体交渉開催に当たり、交渉場所を学園内とするよう求めたが、原告は、団体交渉ルールは既に確立しているとして、従来どおり建築会館で行う旨回答した。賃上げ、格差是正及び夏季賞与等を議題とする右団体交渉において、原告は、昭和六一年度の賃上げは、人事院勧告に準拠して改定し、格差是正措置として一号俸引き上げ、最高号俸を二号延長する、夏季賞与支給月を引き上げる、前記の格差是正の見通しや賃上げの時期、方法については、懇談会(給与改善諮問委員会)を設け、その答申を参考とする旨を回答した。これに対し、参加人は、当面の格差是正の幅として一号俸引き上げでは少なすぎるとして難色を示したため、妥結に至らなかった。

11  同年一〇月一三日の第四回団体交渉以降、参加人は、昭和六一年度の格差是正措置として三号俸引き上げるよう主張したが、原告は、前回の回答(一号俸引き上げ)を譲らず、その後の団体交渉でも同様のやりとりに終わった。

なお、参加人は、賃上げ及び一時金を議題とする同年一〇月三〇日の第五回団体交渉を前にして、「場所は当面は校外でということでしたが、当面とは一年位という北村理事のお言葉通り、一年たちましたのでお約束を守って校内でして下さい。」との申入書を提出し、原告主張の開催条件の見直しを求めたが、原告の態度は変わらなかった。また、右団体交渉の際、参加人が資料の提示を要求したところ、原告の原事務長は、「ここに持って来ていない。学校にある。」と言い、参加人の再度の要求に対しても「行く必要はない。」と言って取り合わなかった。これについて、参加人は、団体交渉を学園外で行っていることの不便さを指摘した。

原告は、参加人との間で格差是正の問題が妥結しない状況の中で、同年一一月二五日、非組合員に対してのみ昭和六一年度の新ベースに基づく給与を支給した。そのため、参加人は、賃上げ及び年間一時金を議題とする同月二八日の第七回団体交渉において、原告に抗議するなどしたが、右交渉の結果、昭和六一年度の賃上げについては、原告の回答で一応決着し、年間一時金の問題についても前年比三万円増で妥結した。

12  原告に設置された給与改善諮問委員会は、昭和六一年一一月以降検討を重ねていたが、昭和六二年三月五日、答申を採択し、同年一〇月には理事会の承認を得た。答申の骨子は、原告と都内私立高校の給与水準を比較すると、昭和六一年の年収では、二二歳で一七万円、三二歳で五四万円、五二歳で一三六万円の差があり、原告が低く、特に中年層でその差が大きいと指摘する一方、医療系大学教授、国公立病院医長、私立病院医長の例を引き合いに出し、職業の誇りが高ければ賃金は低くなるとの考え方を示した上で、原告の社会的評価と賃金レベルを比較するなどして、結論として原告教職員の給与について、国公立校を下回ることなく、かつ、都内私立校のうちの小規模校の平均を超えない範囲で、かつ、生徒の教育施設、設備その他の支出を犠牲にすることのないよう配慮しつつ、長期的展望をもって改善すべきであるとする内容であった。しかし、原告は、この答申を本件の救済命令申立事件の審理において原告側の書証として被告に提出するまで、参加人側に提示したことはなかった。

13  参加人は、昭和六二年四月二四日、原告に対し、昭和六二年度の賃上げ、格差是正、一時金等各種手当の改善等の要求書を提出し、同年五月八日に団体交渉に応じるよう申し入れた。これに対し、原告は、理事の都合がつかないとして延期を求めたため、結局、賃上げ、格差是正を議題とする昭和六二年度の第一回団体交渉は、同年六月二日に至ってようやく開催された。

原告は、右団体交渉において、参加人に対し、格差是正については、「諮問委員会の答申があったが、答申といえるかどうか。」などと述べるにとどまり、具体的な回答をせず、また、参加人が前年度と同様、団体交渉で決めるよう要求していた賃上げについても、「人勧をみてから回答する。従来どおり人勧が出てから微調整する。」と述べるにとどまった。

なお、昭和六二年度には理事の改選があり、それまで労務担当として参加人との交渉に当たってきた北村理事は退任することとなった。

14  夏季手当及び格差是正を議題とする同年六月一二日の第二回団体交渉では、原告は、参加人との間で、夏季手当は仮支給し、年間一時金の問題として継続審議とすること、今年度も格差是正に努力すること、格差是正のための中長期計画の方針・今後の賃上げの時期方法の方針を同年一〇月末までに回答することを合意した。

15  賃上げ、団体交渉場所等を議題とする同年七月三〇日の第三回団体交渉で、原告は賃上げについては従来どおり人事院勧告が出てから検討し、回答するとの態度を示すにとどまったが、団体交渉の場所については、同年八月四日、参加人の希望を理事会に報告し、検討するとの確約書を参加人との間で作成し、その検討を約束した。

16  その後、参加人は、団体交渉の場所を学園内とするよう再三申し入れたが、原告は、従来どおり建築会館を指定したので、参加人は、同年一〇月二六日、改めて、次回の団体交渉につき、場所を学園小会議室、時間を午後六時五分から、交渉員を組合員全員とするよう申し入れるとともに、原告が一方的に原告主張の開催条件を押しつけることは不当労働行為に当たる旨を主張した。しかし、賃上げ及び格差是正を議題とする第四回団体交渉は、結局、従来からの原告主張の開催条件で同月二八日に開催されることになった。

右団体交渉において、原告は、給与改善諮問委員会の答申を尊重し、給与改善は今後とも人勧準拠を原則とすること(今年度の最高号俸を一号延長)、職務手当、住宅手当を改善すること、賞与を改善(職務手当を算入)することなどを記載した回答書を参加人に提示した。その際、原告は、中長期的な格差是正については、私立高等学校の小規模校を対象とする旨を述べた。

17  賃上げを議題とする第五回団体交渉が同年一一月一七日に、賃上げ及び冬季賞与を議題とする第六回団体交渉が同年一二月二日にそれぞれ開催され、賃上げについては事実上決着をみた。しかし、冬季賞与については、原告が一〇〇〇円の上積みを回答したのに対し、参加人が要求と余りにもかけ離れているとして承服しなかった。右第六回の団体交渉では、建築会館の管理者が時間経過を理由に、原告、参加人の交渉員に退去を催促したため、団体交渉は途中で打ち切られた。

18  参加人は、原告の団体交渉開催条件の指定と団体交渉での態度に不満を抱き、昭和六三年二月一六日付けの文書で、原告の交渉態度は不誠実なものであり、団体交渉の場所等の開催条件で参加人が譲歩してきたことはむなしいものであるとして、原告に抗議した。

さらに、参加人は、第七回団体交渉が予定されていた同年二月二二日、学園長室において野瀬学園長に対し、「団体交渉の場所・時間・人数について理事会は常に組合の希望を無視し、一方的に理事会の考え方を押し通して来ました。私達組合はこうした理事会に対し抗議しつつ、労使関係の正常化を願い、不本意ながら団体交渉を行って来ました。そして組合結成から四年八か月、理事会の態度は今なおあまりに不誠実であります。(中略)当時の労務担当理事北村氏が「当分の間」…一年位…はとにかくこれで話合いをはじめようと提案されました。組合としても話合うことを最優先させるべきと考え一年のすぎるのを待ちました。しかし二年八か月になる今なお、合理的説明一つせず、理事会は一方的に主張を押し通し、組合の希望を一度も受け容れようとしません。もはや組合の忍耐も限度に来ました。(以下略)」と記載した抗議書を手渡した。

参加人は、同日、予定されていた団体交渉の場所である建築会館に赴いたが、原告主張の開催条件では団体交渉に応じられないとして退室し、結局、この日の団体交渉は行われなかった。

19  その後、参加人は、同年二月二五日、改めて賃金問題や産休制度等を議題とする団体交渉を要求したが、原告は、同月二九日の回答により、年度替わりで忙しく都合がつかないとしてこれに応じなかった。

20  原告は、昭和六二年度の団体交渉の際、原告の回答による給与と他の私立校の給与とに関する比較表を参加人に資料として提出したことがある。原告は、ほかにも、昭和六一年七月三日の第二回団体交渉に先立ち、参加人からの求めに応じて、昭和五九、六〇年度の人事院勧告を基にして適用している俸給表等の資料を提出したことがあるが、それ以外は、参加人との団体交渉開始以来、昭和六三年度の団体交渉に至るまでの間に、団体交渉の場で、原告の主張の根拠を示す資料を参加人に提示したことはなかった。

三  昭和六三年度の団体交渉の経緯

争いのない事実、証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によると次の事実が認められる。

1  武本委員長は、昭和六三年四月二二日、原事務長に対し、昭和六三年度の賃上げなどを求める昭和六三年度要求書(その1)を提出し、同月二七日の就業時間後、原事務長に対し、右要求を議題とする団体交渉を同年五月一〇日午後六時から、学園内で開催すべき旨の申入書を提出した。

当時、原事務長が頸椎の病気のために夏休みを利用して入院手術する予定であったため、原告は、大津事務長付を同年五月一日付けで事務長代理に任命し、事務長の職務の引継ぎを円滑に行えるよう配慮し、高校二年の副担任の職務を外した。その結果、大津事務長代理は、同月一日から事務室に移り、参加人との折衝を全面的に行うようになった。

2  参加人は、以前から団体交渉の原告側交渉員として理事の出席を要請していたので、原告は、昭和六二年度から財務理事に団体交渉の担当を委嘱していたところ、右担当の井坂財務理事は、本業の会計事務所が多忙であることなどから、原告としては、参加人から申入れのあった同年五月一〇日を団体交渉期日として調整することが困難な状況であった。そこで、原告は、井坂理事の都合がつく同年六月八日に団体交渉を行うことを参加人に申し入れることを決定した。

3  大津事務長代理は、同年五月六日、武本委員長に対し、同年六月八日午後六時から午後八時まで、場所建築会館会議室、交渉員従来どおり双方とも四名、議題は参加人の同年四月二七日付け申入事項として団体交渉を行いたい旨を回答したところ、参加人からは格別意見がなく、日程の変更の申入れもなかったので、原告としてはこれで参加人に了承されたと考えた。ところが、同年六月二日になって、井坂理事から大津事務長代理に対して、公職による急用ができ、同月八日の団体交渉に出席することができなくなったとの電話連絡があったことから、大津事務長代理は、井坂理事に代わる理事の出席者の確保に手を尽くしたが、各人の予定があり、結局、確保できなかった。そのため、原告は、やむなく同月八日開催予定の団体交渉を、井坂理事及び他の原告側交渉員の都合のつく同月一七日に延期してほしいとの申入れを参加人に対してすることに決めた。そこで、その指示を受けた大津事務長代理は、同月二日午後三時三〇分過ぎ、武本委員長に対し、右事情を説明の上、団体交渉を同月一七日に延期してほしいと要請した。武本委員長は、不満を述べたものの、「組合に話してみる。」と返答するにとどまり、積極的に反対の意思を表明することはなかった。その後も、参加人からは、右延期の申入れに対する苦情はなかった。

4  前記要求を議題とする第一回団体交渉は、同年六月一七日に従来どおりの開催場所である建築会館で開催され、原告側からは井坂理事、野瀬学園長、原事務長、大津事務長代理の四名、参加人側からは武本委員長、大塚書記長、古本副委員長、私教連の水野の四名が出席して午後六時から約二時間二五分にわたり行われた。

この団体交渉における原告と参加人とのやりとりの概要は次のとおりである。なお、原告からはその回答の根拠となる資料は提示されなかった。

(一) 昭和六三年度の基本給の改定(参加人の月額本俸を四二歳で三八万円とするなどのポイント要求)について

原告は、賃上げについては、従来どおり人事院勧告を見てから回答したいと答え、回答時期についても人事院勧告は八月に出るが、学校の都合もあるので九月か一〇月になると述べた。これに対し、参加人は、「なぜ団体交渉で決めず、人勧方式でなければならないのか。」と追及したところ、原告は、もし、原告が独自の体系を作ろうとするには、小規模な原告のようなところではエネルギーのロスも多く、間接人件費を増やすことにもつながる旨説明し、格差是正については、「今後の客観情勢がどう変わるのか三年後の見通しが立たない。方向性はまだ話し合っていない。」などの回答をするにとどまった。そのため、参加人は、その具体的な方針とか当面の措置を示すよう要求した。

(二) 一時金の改善と増額(参加人の算定基準項目に扶養手当を加え、年間一時金を六か月分に二〇万円を加算して支給することの要求)について

原告は、夏季賞与は昨年どおり二・二か月分に五万円を加算することで例年どおり六月二五日に支給するが、冬季賞与についてはまだ決まっていないと回答するとともに、人事院勧告が出なくては年間での回答は出せないとも述べ、算定基準項目に扶養手当を加えることについては、「基本給に職務手当を加えて昭和六二年度実施したばかりである。扶養手当は他と比べても相当高い水準にあることでもあり、理事会としては扶養手当を入れるのは時期尚早であると考えている。一時金には、勤務評定の要素があるので、全員同じ月数というのではなく、働きに応じたものにすべきであり、一律に支払うのは考え直すべきだ。」と答えた。

(三) 年度末手当の新設(参加人の年度末手当を新設し、〇・五か月分支給することの要求)

右手当については、原告は、「これまでどおり新設の考えはない。」と回答した。

(四) 職務手当の公開(参加人の学園長、教頭、事務長、部長の職務手当を以前のように公開することの要求)

原告は、職務手当は公開しているが、役職者に支払う職務手当については、名称が役職手当に変更され、その性格も変わったので、昭和六二年度の賃金改定時から非公開とした旨、その額についても、人事権は理事会にあるという点から、公開しないと決定しており、また、個人の給料は機密に属することであり、組合員の労働条件とは全く関係がないので公開しない旨回答した。

参加人は、この説明を納得せず、その役職には誰がなるか分からないから、参加人とは無関係とはいえず、機密事項にも当たらない労働条件の問題であると反論し、更に公開を求めたところ、原告は、任命するのは理事会であり、その時点では該当する本人には知らせるが、一般の教職員に共通する労働条件とは違い、人事権に属するものであり、公開すべきものではないと思うが、一応希望は理事会に伝える旨回答した。

(五) 住宅手当の増額(参加人の一律月額八三〇〇円に引き上げることの要求)

原告は、昨年度五〇パーセント引き上げを実施したばかりであり、今年度は実施する予定はないと回答した。

(六) 前歴計算基準の公開(参加人の前歴計算の基準を公開するか、全教職員の月額本俸を公開することの要求)

原告は、理事会で公開しないと決めているから公開しない旨、役職手当と同様に機密事項であり、組合員の労働条件に当たらない旨答えたが、理事会で再検討することを確認した。

(七) 講師給与、入試手当の規定等の公開(参加人の講師の給与規定、入試手当の査定基準の公開の要求)

原告は、講師の給与規定の公開要求については、「講師に対する評価にかかわるので、公開できない。」と答えた。また、原告は、入試手当基準の公開要求について、入試手当は入試当日出勤すれば一回二万円と決まっており、すでに公開している旨回答したところ、参加人は、プラス・アルファーの査定部分はどうなっているのかと質問した。これに対し、原告は、この一回二万円の基準に加えて、入試問題の作成、採点、面接、判定会議出席、教務関係、受付・手続事務などの入試に関する仕事を教職員に命じて担当してもらい、それぞれの役割に応じ、上限を設けて組合員にも他の教職員と全く同じ基準で支払っているが、原告の人事権に属するので公開しない旨回答した。参加人は、講師給与規定、入試手当の査定基準の両者とも労働条件に属するので、公開すべきであると反論した。原告は、これについても理事会で再検討することを確認した。

(八) 出張手当の改善(参加人の支給額の改善などの要求)

原告は、「無理だが改善の時期だと思う。」、「手当の額は他の学校と比べても、見劣りするものではないから、今年度の改定は考えていない。」などと答えたが、参加人は、早急に改善するよう求めた。

(九) 退職金の改善(参加人の勤続二〇年で二〇〇〇万円を基準とすることなどの要求)

原告は、現在、年金という方向で考えているが、資金面の都合もあり、一時金での増額は考えていない旨を回答した。

5  原告は、昭和六三年度の第一回団体交渉終了の数日後に宇梶理事長以下の関係者による会議を開き、参加人からの要望について検討した結果、右団体交渉における回答のとおり、給与については人事院勧告が出されてからそれを参考にさらに検討する、その他の要求事項についても例年出されているものであり、当年度どうしてもすぐに決めるべき事項でもないので、これらについても夏休み中にさらに検討してから参加人に回答する、団体交渉の期日についても夏休み終了後にする、以上のことを参加人に申し入れる、との結論に達した。そこで、原告は、昭和六三年六月二四日、参加人に対し、右団体交渉後検討した結果、前回の交渉で逐一回答したとおりであり、次回団体交渉は夏休み後に行いたい旨回答した。これに対し、武本委員長は、同月二七日の就業時間後、原事務長に対し、「第一回団交はようやく六月一七日に開かれましたが、その回答は組合の要求を何一つ受け入れることのない、不誠実団交に終わりました。(中略)四月からの度々の団交の申し入れを引きのばし、団交を忌避する貴理事会の姿勢は、三年前に中労委が下した団交命令を軽視し、正常な労使関係への努力を欠き、組合をないがしろにする不当労働行為と考えざるをえません。ここに、貴理事会の不誠実な姿勢に対し、強く抗議します。」と記載した抗議書を提出した。

原事務長は、同年七月一一日から欠勤し、同月一三日に入院した。大津事務長代理は、特別授業を担当するほか、百周年記念館建築委員でもあり、多忙のため原事務長との間で十分な事務引継ぎができていなかったこともあって、夏休み期間中も毎日出勤していた。一方、組合員の中には出勤している者もいたが、同年六月二七日以降同年七月一八日まで、参加人側からは、右抗議書の提出があったほかには、団体交渉の時期を早めるべき旨の申入れはなかった。

6  参加人は、同年七月一八日、被告に対し、団体交渉の促進を求めるあっせんを申請したので(都労委昭和六三年(争)第五八号事件)、大津事務長代理は、同日午後四時過ぎ、被告から、電話で、その旨の連絡を受けた。大津事務長代理としては、参加人も原告側の多忙な事情を理解していると思っていたので、あっせんの申請があったことには驚いたものの、直ちに宇梶理事長、井坂理事、野瀬学園長及び谷田貝教頭らの関係者にその旨を報告した。古本副委員長は、同月一九日午前一〇時ころ、大津事務長代理に対し、「日時昭和六三年七月二六日(火)一三時三〇分より、場所学園会議室、議題昭和六三年度賃金引上げ要求に関する件(前回よりの継続事項)、御返事は七月二五日(月)一五時までにお願い致します。」と記載された申入書を提出した。大津事務長代理は、前日に原告関係者と電話で協議したところでは、参加人要求の日時に合わせるのは不可能であることが明らかであったので、古本副委員長に対し、「七月中は難しいと思うけれども、理事会に伝え、二五日までには返事をすることにしましょう。」と告げた。大津事務長代理は、このように参加人からの文書による団体交渉の申入れがあったので、同月一九日夜、再度電話で原告関係者の日程を調整した。当時、井坂理事は本務が多忙であり、野瀬学園長、谷田貝教頭も多忙であったが、原告関係者の都合のつく最も早い日を選んで、被告のあっせんを待たず、できるだけ早く団体交渉に応じる方が今後の労使関係のために良いと判断し、同年八月九日に団体交渉を開催するよう日程を調整した。

そこで、大津事務長代理は、同年七月二五日、参加人に対し、「1日時昭和六三年八月九日(火曜日)一八時から二〇時(時間厳守)、2場所建築会館会議室(当方で用意)、3交渉員双方とも四名(従来どおり)、4議題貴七月一九日付申入事項」として団体交渉を行いたいと回答した。これに対し、参加人は、その後、何の申入れもしなかったので、原告は、あっせん手続を経るまでもなく、団体交渉を行えると判断した同年七月二八日、被告に対し、団体交渉の予定や今後も自主的に解決する旨などを記載した回答書を提出した。その結果、被告によるあっせんは打ち切られた。

7  しかし、参加人は、原告が同年七月二五日に示した第二回団体交渉の開催条件が従来どおりの原告主張の開催条件(時間二時間、場所建築会館、交渉員数双方四名)に従うというものであったため、同月二九日、「抗議並びに申入書」を渡辺執行委員を通じて大津事務長代理に提出した。参加人は、右書面において、同年八月九日の開催期日については同意するが団体交渉のルールについて、これまで再三抗議、申入れを重ねてきたにもかかわらず、原告がなお時間、場所、交渉員数について一方的に制限を加え続けていることは誠に遺憾であり、このような原告の態度は不当労働行為に該当するものであるとした上、次回団体交渉は、参加人が提案した「場所は学園内会議室、時間・交渉員数については特に制限を設けず」との開催条件で行うことを再検討し、その回答を同年八月五日までになすよう求めた。渡辺執行委員は、右書面交付の際、大津事務長代理に対し、「大塚先生宛てに手紙で返事をくれるように言われて来ました。」と付言した。右書面を受け取った大津事務長代理は、同年五月の理事会の際、被告に対する前記回答の際、前記団体交渉の出席者の調整の際に、理事長、学園長、財務理事など原告関係者に意見を聞き、団体交渉の開催条件は従来どおりとすることを確認していたので、その場で、「ルールはいつもと変わらないが、どうしても必要ならば、八月九日の団体交渉の席上で回答しましょう。」と答え、その旨を大塚書記長に伝えるよう渡辺執行委員に依頼した。

武本委員長は、昭和六三年七月三〇日、大津事務長代理に対し、「組合の印は現在大塚書記長のところにあり、押印されていないが、こんなことも検討してほしい。」と言って、施設改善(用務員室の改善など)、教育条件その他労働条件(産休制度の改善など)、組合活動(組合事務所の供与など)等、三〇項目の要求内容を記載した昭和六三年度要求書(その2)を提出した。右要求書には参加人の押印がなかったが、大津事務長代理は、武本委員長に対し、内容を検討して回答する旨を答えた。大津事務長代理は、その際、武本委員長に対し、「八月九日は建築会館で午後六時から二時間、交渉員は双方四名でやるんですよ。」と伝えた。これに対し、武本委員長は、いつも原告が開催条件を押しつけている旨の発言をしたにとどまった。

8  大塚書記長は、昭和六三年八月九日午後四時ころ、大津事務長代理に対し、電話で当日の団体交渉の場所についての問い合わせをした。これに対して、大津事務長代理は、既に渡辺執行委員及び武本委員長にも交渉場所、交渉時間、交渉員数を伝えていたが、「建築会館で午後六時から二時間、双方四名ですよ。」と答えたところ、大塚書記長は、交渉場所については了解したものの、それ以外の原告主張の開催条件については確答せず、参加人側の交渉員の人数、氏名についても明らかにしなかった。

同年八月九日午後六時ごろ、井坂理事、野瀬学園長、谷田貝教頭及び大津事務長代理の四名が建築会館に赴いたところ、同会館会議室には、参加人の上部団体の者四名と大塚書記長、古本副委員長ら組合員三名の計七名が既に入室していた。そのため、大津事務長代理が一人で中に入り、参加人側に対し、「従来と同様、双方四名でやろう。四人になってもらいたい。」と申し入れた。これに対し、参加人側は、「交渉員数については協議できていないんだから、一方的にそういうふうに人数を制限しないでほしい。学園がいつも自分たちの主張を押しつけるのは不当だ。」と言ったので、大津事務長代理は、「これまでずっと行われてきた団体交渉は四名であるし、この団体交渉の組合からの回答についても、学園の申入れを受け入れますと言っているではないか。だから、四名になってもらいたい。」と発言した。井坂理事長(ママ)と谷田貝教頭も、入口の所で、「三名は退席し、四名になってほしい。」と申し入れたが、参加人側は、あくまでも七名全員の出席を主張し、それまで立っていた上部団体の三名も右会議室の椅子に座ってしまった。そこで、大津事務長代理は、「ともかく団体交渉を四人になってやろう。四人ではやれないのか。」と言うと、参加人側は、「なぜ四人でなければいけないのか。」と言って、押し問答になった。このような状態のまま、一向に交渉が開始される目処が立たなかったので、大津事務長代理は、持参していた団体交渉の方法に関する回答書を大塚書記長に手渡した。この回答書は、大津事務長代理が同年七月二九日に参加人に対して交付を約束した書面であり、そこには、「1団体交渉の場所は、従来どおり建築会館で行います。2従来どおり交渉時間は二時間以内、交渉員は双方とも四名以内とします。」と記載されていた。

その後、参加人側は、原告に対し、「この場で団体交渉のルールについて七名対四名で事務折衝をやろう。」と提案し、さらに、「この日の団体交渉のルールを決める事務折衝を是非やりたいが、それがどうして七人ではいけないか。学園内で団体交渉が開けないのはなぜか。」などと質問した。これに対して、大津事務長代理は右会議室内で、井坂理事と谷田貝教頭は右会議室の外から、それぞれ、「団体交渉のルールの改定の話ならば、従来どおり双方四人の団体交渉の場で交渉しよう。」と言った。また、大津事務長代理は、「仮にそれを事務折衝で行うにしても、事務折衝を団体交渉出席者より多い人数でするのは、おかしいじゃないか。ここは、ルールどおりの団体交渉の場であり、あらかじめ話もなしに、ルールの出席者よりも多い人数で、団体交渉に持ち込もうとするのはおかしいし、そのルールを変える考えはない。理事会からも変更してよいとの委任も受けていない。」と答えた。さらに、参加人側が、「学園内でなぜやれないのか。」と質問したので、大津事務長代理は、「会場を学園内にしないのは、秩序を乱すことになり、教育上好ましくないからだ。組合は交渉時間も無制限といっているので、どんな不測の事態が予想されるかも分からない。学園内で行うことは、学園の教育方針である静かな教育環境を乱すことにつながるおそれがある。」などと説明した。その間、上部団体の水野が大声で意見を言ったので、大津事務長代理は近隣の会議室にいる人に迷惑がかかると思い、これをたしなめるという一幕があった。

しかし、参加人側は、あくまでも七名を主張したので、井坂理事は、「四人で団体交渉ができるよう、われわれがこの場をはずして下で待っているから、組合もよく考えてほしい。」と申し入れ、原告側交渉員は、同会館内の一階待合所で待機することにした。大津事務長代理は、階下に降りる前、当日の団体交渉が開催されない可能性があることを考慮して、大塚書記長に対し、参加人の同年七月三〇日付け諸要求に対する同年八月九日付け回答書を手渡した。

右回答書の記載内容はおおむね次のとおりである。

(一) 要求書(その1)に対して

(1) 本年度の本俸の改定は、従前どおり人事院勧告の給与表を基に行う。

(2) 賞与算定基礎は、現行どおり、本俸プラス職務手当とする。

(3) 本年度の夏季賞与については、六月二五日に実施、支給済みである。

冬季賞与については、例年どおり一二月一〇日ごろに支給する予定であるが、支給額は、昨年に準ずる予定である。

(4) 年度末手当を新設する意思はない。

(5) 職務手当の公開については、現行どおりとし、公開する意思はない。

(6) 住宅手当の増額については、現行規定どおりとする。

(7) 前歴計算基準の公開又は全教職員の月額本俸の公開については、今後とも個人の給与を明らかにする考えはない。

(8) 講師の給与規定、入試手当の査定基準の公開については断る。

(9) 出張手当、退職金の改善については、現行どおりとする。

(二) 要求書(その2)に対して

(1) 用務員室の改善など九項目については、現行どおりとし、必要があれば原告が決定する。

(2) 産休制度改善など五項目については、現行(法定)どおりとする。

(3) 図書館司書の増員など四項目については、現行どおりとし、必要があれば原告が決定する。

(4) 研修制度改善など四項目については、原告が判断し、決定する。

(5) 組合事務所の供与など二項目については、現行どおりとする。

(6) 団体交渉の傍聴については、現行どおり認めることはできない。

その後、水野を除く上部団体の三名が、一階待合所に待機していた原告側交渉員のところに来て、「われわれが組合と学園の間に立ってやろう。なぜ学園内では団交ができないのか。」などと言って説明を求めた。これに対し、原告側交渉員四名は、原告は建学以来、キリスト教フレンド派の教えに基づき静かな環境を守っていく必要のある学校であること、それは、他の教職員や父母たちの願いでもあり、生徒の教育上絶対に必要であることなどを説明し、上部団体の三名に対し、「会議室に戻って、大塚書記長らにその旨を話して、双方四人で団体交渉がすみやかに開けるように協力してほしい。」と依頼した。しかし、しばらく後に、右三名と大塚書記長が一階に降りて来て、「参加人側の交渉員は七人でなければできない。双方四人のルールには応じられない。労働委員会に不当労働行為として訴える。」と主張した。原告側交渉員は、「組合が訴えるというならばやむを得ないが、もう一度よく考えてみてほしい。予定の時間はともかく待っている。」と答えた。さらに、原告側交渉員が一階で待機していたところ、参加人側の七名は、午後七時三〇分ころ、階下に降りて帰りかけたが、原告側交渉員が待機しているのを見て、急遽会議室に戻った。その後、原告側交渉員は、予定の時間を過ぎたので、当日の団体交渉の開催を諦め、建築会館を後にした。

なお、同日よりも前の団体交渉においては、原告、参加人側の最初の団体交渉である昭和六〇年度の第一回目の場合を除き、予告もなく予定の交渉員数よりも多くの者が交渉員として出席するようなことはなかった。

9  参加人は、昭和六三年八月二三日、原告が昭和六三年度の団体交渉の要求に関して原告主張の開催条件に固執し、参加人がこれに従わない限り団体交渉に応じようとせず、かつ、同年度の団体交渉において人勧準拠に固執するなどの不誠実な態度をとり続けていると主張して、被告に救済申立てを行った。

10  原告と参加人との間では、昭和六三年八月九日の団体交渉が開催されずに終わった後全く折衝がなかったが、原告は、人事院勧告が出た後の同年九月一二日、参加人に対し、参加人の同年七月一九日付け申入事項「昭和六三年度の昇給に関する件」を議題とする第三回団体交渉を、同年九月三〇日午後六時から午後八時まで建築会館会議室において交渉員双方とも四名(従来どおり)で行いたいとの申入れをした。これに対し、参加人は、同月一九日、時間については「二時間に特定しない」、場所については「校内会議室」、交渉員については「四名と特定しない」、議題は申入れどおりとし、さらに、「尚団体交渉のルールにつきましては、私共が現在都労委に救済申立てを行っているように、貴理事会がそれを一方的に指定するのは不当と考えますので、上記のルールで行うことをご検討ください。以上のことにつきまして、九月二六日までにご返事ください。」と書面で回答した。原告は、同月二六日、理事会の担当者間で協議した結果、次回の団体交渉について、参加人に対し、同月一二日に申し入れたように従来どおりのルールで団体交渉を行いたい旨回答した。一方、参加人は、同月二八日、原告に対し、「団体交渉開催に向け、私共は柔軟に対応したいと思いますので、ルールに付いて協議するため事前事務折衝を行うことを下記の通り申入れます。日時九月二九日(木)一〇時三〇分より、場所校内小会議室、組合側出席者一名」との申入れをなした。宇梶理事長、井坂理事、野瀬学園長、大津事務長代理及び谷田貝教頭らが、この申入れについて検討したところ、従来のルールで何も問題はなかったのであるから、従来のルールを変える理由はない、大津事務長代理が授業を担当するほか、理事会の準備や授業料の値上げ、補助金の申請手続などで極めて多忙のため、以前行っていた就業時間中の事務折衝には応じることができないとの結論に達した。そこで、大津事務長代理は、同月二八日午後六時三〇分ころ、古本副委員長に対し、「学園としては、従来どおりのルールで行いたいので、当日建築会館で待つ。就業時間中の事務折衝には応じられない。」と伝えた。

11  大塚書記長は、同月二九日午前一〇時三〇分ころ、学園事務室の大津事務長代理の席に赴き、団体交渉のための事務折衝をすることを提案した。大津事務長代理は、大塚書記長に対し、「古本さんに言ったことは聞いていないのか。」と尋ねたところ、「聞いてはいる。」との返事であったので、「何か話があるならば、就業時間外に学園外の静かな場所でやろう。喫茶店でもいいではないか。」と言った。これに対し、大塚書記長は、「以前は就業時間中でもやったじゃないか。」と主張した。大津事務長代理は、「以前とは事情が違う。以前は以前だ。今はちょっと応じられないから、夕方にしてくれ。」と答え、結局、双方の意見が対立したまま、事務折衝は開催されずに終わった。大塚書記長は、同日午後四時四〇分ころ、大津事務長代理に対し、電話で、「明日の団体交渉ルールについて話そう。組合としては、団体交渉を学園内で行うことを学園が認めるならば、交渉員数は四人でもよい。建築会館で行うとするならば、団体交渉の傍聴を認めよ。」と主張したので、大津事務長代理は、「学園としては、従来どおりのルールで行いたい。三〇日は従来同様四名で建築会館で待っているから。」と答えたところ、大塚書記長は、「それでは流会になる。」と言って電話を切った。

12  大津事務長代理は、同月三〇日午後三時三〇分ころ、大塚書記長に対し、原告側の交渉員が建築会館で待っているので来てほしい旨を再度伝えたが、大塚書記長は、「そんな無駄なことをしなくてもよい。」と答えた。しかし、学園側交渉員の井坂理事、野瀬学園長、谷田貝教頭及び大津事務長代理の四名は、同日午後六時、建築会館会議室に赴き、そこで待機していたが、参加人側交渉員は現れず、結局、団体交渉は開催されなかった。

13  原告は、同年一一月一日、従来どおりのルールで同月一六日に団体交渉を行いたいと参加人に申し入れたが、参加人は、同月四日、「場所は校内とすること、時間は特定しないこと、交渉員数は特定しないこと」と回答した。これに対し、原告は、同月一一日、参加人に対し、同月一六日に従来どおりのルールで団体交渉を行いたい旨を回答したが、参加人からは何の申入れもなかったので、当日予定の時刻に原告側交渉員四名が建築会館会議室に赴いたところ、その入口に待機していた武本委員長、渡辺執行委員及び田中組合員の三名が、「組合は現在都労委で争っているので、その結論が出るまでは団体交渉はできない。学園がルールを変えない限り団体交渉はできない。」と言って立ち去った。そのため、団体交渉は開催されなかった。

原告と参加人と間の団体交渉は、以後、本件命令が発せられるまでの間、全く開催されなかった。

第二判断

一  昭和六三年度の第二回団体交渉(同年八月九日開催予定)等における原告の対応について

1  前記認定事実によると、原告は、参加人との初の自主団交である昭和六〇年度の第二回団体交渉の開催に当たって、まず長期的な団体交渉のルールを参加人との協議により確立しようとしたが、参加人がこれに反対し、両者間における開催条件の調整が難航したこと、そのような状況の中で、参加人は、原告が当初の案よりも譲歩し、交渉時間を二時間、交渉場所を建築会館会議室、交渉員を双方四名とする案を提示したことや、原告の北村理事が「当面は」このルールで行いたいと発言したことなどから、まず団体交渉の実績を作ることが必要であると考えて、とりあえず昭和六〇年度の第二回団体交渉を原告が主張する開催条件で行うことに合意したことが明らかである。

原告は、参加人との間で、昭和六〇年度の第二回団体交渉の事前事務折衝において、原告主張のような団体交渉ルールの合意が成立したと主張している。

しかし、(証拠略)によると、参加人は、昭和六〇年一一月一日付け書面において、原告に対し、「第二回団体交渉開催に関する貴理事会よりの一〇月二八日付申入れを受諾いたします。尚この第二回団体交渉は貴理事会の申入れ通りに開催しますので、事前折衝は行いません。」と回答していることが認められ、このように参加人が第二回目の団体交渉に関するものであることを明示した上で、原告主張の開催条件を受諾している事実に照らすと、参加人が右団体交渉に先立って将来も拘束されるような団体交渉ルールに合意したと認めることは到底できない。

また、前記認定事実によると、参加人は、昭和六〇年度の第三回団体交渉以降、昭和六三年度の第二回団体交渉(同年八月九日開催予定)に至るまでの間、団体交渉を行うについて、原告に対し、原告主張の開催条件について絶えず異議や抗議を述べてきており、その際、抗議等の理由を幾度となく述べていたのであるから、原告は、団体交渉の開催条件について相互に対立点のあること及びこの対立点となっている理由が何であるかということに関しては十分に認識していたと認められる。

したがって、原告と参加人との間で、団体交渉の都度団体交渉のルールにつき合意が成立していた、あるいは、団体交渉ルールが確立していた旨の原告の主張はこれを認めることができない。

そして、事務折衝についても交渉員を双方四名とするルールが確立していたと認めるに足りる証拠もない(かえって、<証拠略>によると、昭和六〇年七月一六日に開催された事前事務折衝の出席者は、原告側四名に対し、参加人側は五名であったことが認められる。)。

ところが、原告は、昭和六三年の第二回団体交渉に当たって、参加人が事前に提出していた開催条件の再検討の要求に対し、従来どおりの開催条件に固執してこれに全く応じようとせず、当日の団体交渉をこのルールに関する事務折衝へ切り替えてほしいとの要求にも応じなかったのである。しかも、原告は、その後も、昭和六三年度の賃上げ等に関する団体交渉について、従来どおりの原告主張の開催条件によるのでなければ応じられないとして、参加人からの開催条件に関する事務折衝の要求にも応じようとしない態度をとったため、結局、団体交渉が開催されないまま推移したのであって、このような原告の一連の対応は、団体交渉の開催条件に関する参加人との交渉を正当な理由なく拒否したものと評価されてもやむを得ないであろう。

もっとも、原告、参加人間では、原告主張のような開催条件により昭和六〇年一一月以降その都度団体交渉が行われ、参加人も不本意ながらも、右開催条件に従ってきたことは否定できないところ、参加人は、昭和六三年度の第二回団体交渉の当日、交渉場所である建築会館に七名で臨み、その全員を何らの予告もなく交渉員として出席させるよう原告に対して要求し、四名になってもらいたいとの原告の申入れにも応じず、右七名全員を交渉員とすることを主張して譲らず、原告側が七名による団体交渉に応じないとみるや、双方確認済みの当日の議題に関係のない団体交渉のルールについての事務折衝をその場で右七名と行うよう要求したのである。このような参加人の態度は、本件命令も指摘するとおり、いささか性急に過ぎるといわざるを得ないが、それまでの原告の開催条件に関する、かたくなともいえる対応にかんがみると、やむを得ないともいえる一面をも有するから、前記判断に影響を及ぼすものではない。

原告は、昭和六三年度の第二回団体交渉について、当日の開催条件に関する合意が参加人との間で成立した旨を主張している。

なるほど、前記認定事実によると、参加人は、右団体交渉につき原告の提示した開催条件の再検討を求めていたものの、定刻には建築会館に赴いたのであるから、右当日の交渉開始時刻、交渉場所についてはこれを受け入れたものとみられる。しかし、前記認定のとおり、大塚書記長は、当日の大津事務長代理との電話で、交渉場所を建築会館とすることは了解したものの、それ以外の原告主張の開催条件については確答せず、参加人側の交渉員の人数、氏名をも明らかにしなかったのであって、この事実からすると、交渉員数については、原告と参加人間で合意が成立するには至らなかったというべきである。

さらに、原告は、団体交渉の開催条件は団体交渉事項ではないと主張しているが、右開催条件は、団体的労使関係の運営に関する事項として団体交渉の対象事項に含まれていると解されるから、原告の見解は採用することができない。

原告は、一時的に団体交渉が開催されなかったのは、参加人が「時間は制限しない」、「交渉員は制限しない」、「場所は学園内」という団体交渉ルールを固執したためであると主張している。

なるほど、参加人が昭和六三年度の第二回団体交渉以降の開催条件についてそのような趣旨の主張をしたことは前記認定のとおりであるが、証拠(<証拠・人証略>)によると、参加人は、以前にも団体交渉の申入書、回答書において、交渉場所を学園内とすべき旨を記載しており、交渉員数については記載しなかった場合や「適宜」、「組合員全員」、「限定しない」と記載した場合、交渉時間については終了時刻を記載しなかった場合や「限定しない」と記載した場合があったが、これは、全く無制限、無制約な団体交渉を要求する趣旨と解すべきではなく、原告に開催条件の再検討を求める趣旨でそのように記載したものと理解でき、最終的には、原告側の提示した開催条件により団体交渉を行ってきたこと、交渉時間についても、実際に過去に行われた団体交渉は三時間以内に終了したことが認められるのであって、このような事情からすると、原告においても、参加人が全く無制限、無制約な団体交渉を要求する趣旨ではないことを理解し得る状況にあったと考えられる。

したがって、参加人側の責任により団体交渉が開催されなかったとはいえない。

また、原告は、昭和六三年九月に団体交渉に関する事務折衝が開催されなかったのは、大津事務長代理が極めて多忙であるのに、参加人が就業時間中の折衝を要求したからであると主張しているが、前記認定のとおり、原告が以前には就業時間中の事務折衝に応じていたことからすると、参加人の右対応があながち不当なものであるとはいえず、前記判断を覆すものではない。

2  原告は、団体交渉は激しかねないので教育の場である学園内で行うことは適当でないと主張している。

なるほど、原告の教育方針が最大限に尊重されなければならないことはいうまでもなく、また原告の右主張にも一応首肯し得るところがある。しかし、参加人の団体交渉権も実質的に保障されなければならないのであって、しかも、前記認定のとおり、昭和六〇年度の第二回団体交渉の開催条件に関して、学園内の会議室で何回か事前事務折衝が行われたことがあるが、証拠(<証拠・人証略>)によると、その際、協議は平穏に行われ、学園の運営にも支障はなかったことが認められるのであって、このことからすると、原告の右主張は単なる憶測ないし杞憂にすぎないとも考えられるし、証拠(<証拠・人証略>)によると、原告の生徒は、遅くとも午後六時ころまでには下校して学園内にいなくなること、学園内には本校舎等団体交渉を行うことが可能な建物が存在することが認められるのであるから、本件において、教育活動に支障を生じるなど学園内での団体交渉を不適当とするような事情は認められず、仮にこのような事態が発生したならば、この時点で別途対応を考えても遅くはないであろう。

原告は、交渉場所を建築会館としていることについて不都合が生じたことはないと主張している。

しかし、前記認定事実によると、団体交渉開催中に建築会館の管理者から時間超過を理由に退去を求められたため、団体交渉を打ち切ったことがあるほか、原告が参加人の資料の提示の要求に対し、持参していないとして応じなかったことがあり、このように、実際にも不都合が生じたこともあるのであるから、右主張は事実に沿わないものである。

3  以上のとおりであるから、原告は、昭和六三年度の第二回団体交渉等を正当な理由なく拒否したものというべきである。

二  昭和六三年度の第一回団体交渉(同年六月一七日開催)等における原告の対応について

1  前記認定事実によると、原告は、昭和六〇年度から昭和六二年度までの間、参加人から、原告の給与水準が他の都内の私立校との間で格差があることを指摘され、その存在と是正の必要性を認識していたにもかかわらず、賃上げについて人勧準拠の方針をとり続ける一方、参加人に対しては、人勧準拠の理由を具体的に説明しなかったのである。そして、原告は、昭和六三年度の第一回団体交渉においても、賃上げについては従来どおり人事院勧告を見てから回答したいと答え、独自の体系を作るにはエネルギーのロスも多く、間接人件費を増加することになるなどと説明するにとどまり、人勧準拠の具体的な根拠について資料を提示するなどして説明することはなかったのであって、このような原告の態度は、人勧準拠によるか否かは原告の裁量判断事項に属するから、この当否は措くにしても、従前からの原告の方針を一方的に繰り返すにすぎないものであり、誠実な交渉態度と評価することは困難である。

原告は、昭和四一年八月二〇日以来、教職員の給与の決定を人勧準拠としており、参加人も人勧準拠を基準として要求をしてきたと主張している。

なるほど、証拠(<証拠・人証略>)によると、原告は、昭和四一年八月二〇日、教職員の給与の決定を人勧準拠によることとし、その了解を得たこと、それ以来、原告は、右方式を踏襲しており、参加人も、組合結成後の昭和五八年六月の賃金改善要求や、昭和五九年度の要求において、人勧準拠の給与表をその基準としたことが認められる。しかし他面、証拠(<証拠・人証略>)によると、人勧準拠を決定した当時は、私学の給与水準が低く、人勧準拠による給与表の適用により原告の教職員の給与水準が改善されたものの、その後、他の私学の給与水準が向上し、原告のそれとの間で格差が次第に増大したこと、特に高齢者に関して、顕著な格差が生じていることが認められるから、原告の右主張事実は、人勧準拠の合理性を裏付けることにはならない。

また、原告は、人勧準拠といっても、具体的には参加人との団体交渉により給与表を決定してきたと主張しており、証拠(<証拠・人証略>)によると、原告は、例えば、昭和六二年度には最高号俸を前年度より一号俸上げ、人事院勧告よりも七号俸を延長し、四三号俸(二等級)とするなど、過去においてもその都度給与の改善を実施していることが認められる。しかし、証拠(<証拠・人証略>)によると、参加人が原告に対して人勧準拠の方針を改めて、私学水準に合致した賃金を支払うよう要求するのに対し、原告があくまでも人勧準拠の方針を譲らないため、具体的な内容のある交渉が成り立たないことから、参加人としては、不本意であるが、少しでも教職員の給与の改善になるとの判断のもとに、やむなく原告の提案を受け入れてきたものであることが認められるのであって、これをもって、原告が教職員の給与を実質的に団体交渉によって決定したということはできない。

原告は、人事院勧告や原告の財務諸表などの関係資料は参加人も容易に入手でき、団体交渉において関係資料の内容の説明もしていたと主張している。

なるほど、人事院勧告自体を容易に入手することができることは公知の事実であり、前記認定事実及び証拠(<証拠・人証略>)によると、学園の財務諸表(資金収支計算書、消費収支計算書、貸借対照表)は参加人組合結成前の昭和五七年度から教職員には誰でも閲覧できるように教員室に備えつけられており、いつでも閲覧が可能な状態であること、財務諸表の関係資料は、評議員に配付されるところ、当時の田中委員長や山本組合員が評議員でもあったことから参加人が容易に入手、閲覧できる状態にあったこと、参加人は、昭和六〇年以降、資料として提出を要求したのは、主として右財務諸表と専任教職員の号俸一覧表であったこと、原告は、専任教職員の号俸一覧表については原告の人事の機密に属する資料であることから、団体交渉の際に提出しなかったことが認められる。

しかし、本件で原告に問われているのは、原告が参加人に対し、団体交渉の際、参加人の理解を得られるよう人勧準拠が合理的であるとする根拠を具体的な資料を示して説明するなどの努力をした姿勢を示したかどうかの点にあるのであって、前記認定事実によると、結論のみを述べるにとどまり、そのような説明をしたとはいえないし、右のような資料の入手可能性があるからといって、説明などが不要であるとすることもできない。

2  前記認定事実によると、学園長、教頭、事務長及び部長の職務手当の公開要求、前歴計算の基準の公開要求並びに講師給与および入試手当の規定等の公開要求についても、原告は、それらの要求に応じられない理由として、人事の機密に属する、組合員の労働条件とは関係がないなどと単に回答したにとどまり、これ以上にその理由を説明しようなどとはしなかったのであって、原告のこのような態度は、右の事項のうちで、人事の機密事項に属するであろう部分の存することは推測し得るとしても、参加人の理解を得られるように対応したと評することはできない。また、施設改善等に関する要求書(その2)についての回答でも、原告は、理由を明らかせず、単に必要があれば原告が決定するなどと述べたのみであって、団体交渉の場において参加人の要求事項を検討、協議し、これを解決しようという基本的な姿勢に問題を投げかける態度であるといわざるを得ない。もっとも、証拠(<証拠・人証略>)によると、右要求書の要求内容は、昭和六三年以前と同内容のものが多いことが認められるが、そうであるからといって、右のような回答で済ませることが真摯な対応であるとはいえない。

3  団体交渉期日の引き延ばしの有無について

前記認定事実によると、原告が昭和六三年度の第一回の団体交渉の期日を昭和六三年六月八日とし、後にこれを同月一七日に変更したのは、いずれも原告の交渉員のやむを得ない日程の都合によるものであり、同年度の第二回の期日を同年八月九日と指定したのは、今後の労使関係のためには早期の自主解決が望ましいと判断したためであるから、原告が不当な目的をもって期日を延ばし又は早めたということはできない。しかし、原告の財政事情に応じて給与の改定を検討することは人事院勧告がなされる前でも可能であると考えられ、昭和六三年度の他の要求事項についても夏休み前に検討することに格別支障はないと考えられるから、原告が同年度の第二回団体交渉を夏休み後に行うと回答したことは誠実性を疑われても致し方ないといえよう。

4  以上みたとおり、昭和六三年度の団体交渉における原告の対応は、参加人の賃上げその他の要求に対する説明の点でも、一部の期日設定の仕方の点でも総じて不誠実なものと評されてもやむを得ない。

三  まとめ

したがって、被告が本件命令において労働組合法七条二号の事由があるとしたことには、原告が主張するような違法な点はなく、その救済方法として別紙記載の主文のとおり命じたことについても、前記事実関係のもとにおいては、その裁量の範囲内のものと解することができるから、右同様、違法な点はないというべきである。

第三結論

よって、本件命令は適法であるから、原告の請求は理由がないものとして棄却することとし、訴訟費用(補助参加によって生じた費用を含む。)の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九四条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 林豊 裁判官 小佐田潔 裁判官 蓮井俊治)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例